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茨城の神話巡りと時々KENPOKU 前編

こんにちは。

テクニカルディレクターの安藤です。

海か、山か、芸術か?」というテーマが印象的な茨城県北芸術祭2016が、9月17日から開催しています。

先日、『常陸国風土記』のスポットや神社を巡りつつ、KENPOKUアート作品にも触れる小旅行をしてきました。

展示作品には茨城の神話・民話から着想を得ているものもあり、一つのネタとしてご紹介できればと思います。

茨城県北芸術祭とは

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公式サイトより

茨城県県北エリアの6市町が舞台という壮大なスケールの芸術祭です。

絵画や彫刻だけでなく、科学技術を使ったメディアアート、バイオアートまで、県北地域の様々なスポットで多様なアート作品を体感することができます。

 

常陸国風土記とは

奈良時代(713年)に編纂された、我が国最古の地誌が『風土記』です。

その一つ、茨城県あたりを記したのが『常陸国風土記』。

大和朝廷は「風土記」によって全国の事情を認知し、統治の指針としました。

日立駅

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ガラス張りの現代的な駅舎の日立駅。

KENPOKUで駅舎のガラス窓がアート作品になっています。

ダニエル・ビュレン『回廊の中で:この場所のための4つの虹 ー KENPOKU ART 2016のために』(作品番号:A-04)。

窓がカッティングシートで虹色に彩られ、駅内が非日常的な空間に。

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特に動く歩道で移動してみるのがオススメ。
アトラクションのようで、思っていたよりずっと楽しかったです。

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常陸国風土記で唯一、仏教関連の記述・仏ヶ浜(日立市)

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『常陸国風土記』で唯一、仏教関連の記述がこの仏ヶ浜についての一文。

川原宿禰黒麻呂という人が常陸国の国司であった時、海辺の石壁に観世音菩薩像が彫り作られた。それは今も在り、そのためここは仏浜と呼ばれている。

『常陸国風土記』多珂郡

田尻小学校の南側、崖縁の岩壁に史跡・仏ヶ浜(度志観音跡)があります。

浜といっても、現在はわりと内陸にあります。昔はすぐそばまで海がだったのかもしれません。

扉がついた横穴が、度志観音跡

覗いてみても真っ暗で、わずかに人工的な凹凸があることが認められるぐらいでした。

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写真には映っておりませんが、左側にも岩壁の窪みに地蔵像が立ち並んでおり、かつての度志観音の姿を偲ばせます。

そして、蚊がすごかったです。

金色姫伝説ゆかりの地・蚕養神社(日立市)

蚕養神社

社伝では、第7代孝霊天皇5年創祀。とても昔です。

ご祭神が浜に現れて、里人が養蚕の祖神として奉ったのが始まりとされています。

それで、神様が現れた浜を蚕養浜(こかいはま)と呼ぶようになったと。今の小貝ヶ浜の地名の由来です。

また一方で、「金色姫伝説」という伝説が残っています。

昔、豊浦港に繭の形をしたうつろ舟が漂っているのを、この地の神官・権太夫が見つけた。

権太夫は、うつろ舟の中を開けてみると、美しい姫が現れたので訳を聞いた。

姫の名前は金色姫。インドの大王の娘だが、継母にひどい虐めにあい、見かねた父が桑の木で丸木舟を作り、自分を逃したという。

それから権太夫夫婦は、金色姫を我が子のように大切に育てた。

5年の月日が経ち、突然、姫は泣きながら権太夫夫婦に告げた。

自分の命も今宵限り。自分は今生の宿縁のため、蚕という虫に生まれ変わる。桑の葉を食べ、四度衣を脱ぎ捨てる。糸を吐いて繭を作り、この身を繭の中に葬ることになる。その繭は、助けてもらった命の恩の置き土産だと。

姫は養蚕の業を教え、念仏と共に昇天した。これから、日本に養蚕が広まったという。

この「金色姫伝説」は蚕養神社の案内板にあったもので、いくつかパターンがあり、姫は夫婦に拾われて間もなく病死し、夢でお告げをするというお話もあります。

地域によって差異があるのも、伝承の面白さです。

蚕養神社

境内の岩壁はサガワニの巣穴でいっぱいで、びっくりしました・・・。

サワガニ

階段登った先が社殿です。

蚊を払いながら写真を撮りました。

蚕養神社

「金色姫伝説」の蛇足ですが、江戸時代のUFOと宇宙人を描いたという浮世絵(Google検索「江戸時代 ufo」)がありますが、この伝説をモデルにして描かれたものだそうです。

当社の近くにはうつろ舟ミニ博物館があります。

地名の由来がちょっと残酷・薩都(さと)神社

薩都神社

延喜式神名帳』に名を連ねる式内社で、常陸久慈郡の総社です。

社伝では、788年創祀で、800年に「賀毘礼(かびれ)の高峰」(後述)に遷座とされています。

周辺の薩都の地名の由来について、『常陸国風土記』ではこんなお話が記されています。

ここ(太田里)より北の方に薩都(さつ)の里がある。

昔、土雲(つちぐも)と名乗る國栖(くず)がいた。

ここに兎上(うのかみ)命は兵をおこして攻め滅ぼした。

そこで、

「兵によく殺させて福(さち)なるかも(幸せなことだ)」と言われた。

そのため薩都と名付けられた。

北の山にある白土は絵に塗ることができる。

『常陸国風土記』 久慈郡

土雲は妖怪ではなく、朝廷に従わない民族のことで、國栖は蛮族に対する蔑称です。

ニュアンスとしては、「蛮族を滅ぼしてこの土地に平和が訪れた。幸せなことだ。」という意味でしょうが、なかなか酷い表現をされます・・・。

厳格な神が鎮む山はどこを撮っても絵になる・御岩神社

御岩神社

御岩神社も創建時期不明で、とても古いです。

こちらも式内社で前述の薩都神社の本宮として『延喜式神名帳』に記載されています。

『常陸国風土記』にいう「賀毘礼(かびれ)の高峰」が、御岩神社の鎮座する御岩山といわれています。

東の大きな山を、賀毘礼(かびれ)の高峰と人々は言っている。

立速男(たちはやを)命という天つ神がおいでになる。またの名を、速経和気(はやふわけ)命という。

元々、高天原から地上に降り、松沢という地にある松の木にお鎮まりになっていた。

この神の祟りは大変厳しく、ある人がその木に向かって用をたそうものなら災いをして、病気にさせたという。

近隣の人々はいつもひどく苦しみ悩んでいたので、その有様を朝廷に申し上げたところ、片岡大連という人が遣わされた。

敬い祭られて、神に申し上げていうには、

「今おいでになるこの地は百姓の家が近く、朝夜とも汚く臭い所です。そのため、神のおいでになるところにはふさわしくありません。どうか高い山の清らかな場所に避けてお移りください。」

そこで神は祈りの言葉を聞き入れて、ついに賀毘礼(かびれ)の高峰に遷座することとなった。

『常陸国風土記』 久慈郡

そんな厳格な神様が鎮まる森は、どこを撮っても絵になります!

 

斎神社回向殿の天井に、岡村美紀『御岩山雲龍図』(作品番号:A-14)がありました。

御岩神社 斎神社

社殿と馴染んでいたので、明治大正頃に描かれたものかと思ったら違うんですね。

御岩山雲龍図

境内にはもう一つ作品があります。

森山茜『杜の蜃気楼』(作品番号:A-15)

杜の蜃気楼

晴れていれば、極薄フィルムが日光を反射して神々しく森を照らす姿が見れますが、天候によって作品の魅力が左右されることはないと思います。

雨の姿もそれはそれで、日光を待ち一休みをしている木々の魂をそのままカタチにしたような、不思議な光景でした。

というわけで、後編に続きます!

茨城県北芸術祭2016必携

個人的旅のお供

神社巡りの必需品

安藤 大海

玉川大学卒。大学で日本美術を学び、学芸員資格を取得。
在学中から2014年まで横浜のギャラリーに勤務。画廊運営を通じて現代作家に関心を持ちはじめ、作品蒐集を始める。
2014年からweb制作会社で、デザインからWordPress実装までを担当。中小企業のコーポレートサイトを中心に制作。
2016年にロフトワーク入社。前職のスキルを活かし、主にWordpress案件における技術面のサポートを行う。
日本神話好きで、趣味は神社巡り。>>プロフィール詳細